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2024.5.27 07:00ゴー宣道場

産休クッキー問題から私が思うこと

「産休クッキー問題から私が思うこと」byにしやん

最近、「産休クッキー」というワードがSNSで炎上し、ネットニュースでも取り上げられていた。
この問題は、妊婦の人がSNSに、 「産休をいただきます。ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」というメッセージ付きの、可愛い赤ちゃんのイラストがプリントされたクッキーを職場で配った、という投稿をしたら、「不妊治療中の人への配慮に欠ける」「産休で迷惑をかけるのにお花畑だ」などといったコメントが相次いだ問題だ。
しかも産休クッキーを製造するメーカーにまでクレームがきたというから驚きだ。

私は実際数年前、産休クッキーを会社で貰ったことがある。「うわぁ、すごい凝ってる!こんなクッキーあるんだ!」と普通に喜んだ記憶がある。
だが最近は、「あの人の前では子供の話題は禁止だよ」だとか「出産祝いや結婚祝いは部署内でもやめておこう」という雰囲気が当たり前になっていて、残念なことにすっかり同僚の幸せをお祝いしにくくなってしまっているのが現状だ。

なぜここまで配慮を求められないといけなくなってしまったのか。

実際、私の友人や職場にも不妊治療をしている人は何人もいる。彼女たちの願いは切実だ。
「一度きりの人生。後悔はしたくない。可能性があるのなら、今できることは全部やりたい。それまでは諦めたくない。」

確かにそうだ。その通りだ。なにも間違ってはいない。「可能性」があるのなら望んでしまうのが人間の性というものだ。
自分の選択した道が、たとえどのような結果になったとしても、それを受け入れる覚悟があれば、なにを選択しようと自由だ。

そしてこの場合の「可能性」とは、自然な形では無理だったり難しかったりしたことが、医学や科学の進歩により可能になったことで生まれた「可能性」だ。

医学や科学は日進月歩。
倫理的に問題はあっても、技術的には可能になった事が今の時代には多くある。
しかも金銭的に余裕があれば、その技術を個人が使う事も可能な世の中になった。

誰しもにそういった「可能性」が与えられる時代になった。
だから恐らくその中で、他者と自分を同じように比較してしまい、願いが叶わなかった自分が傷つきたくなくて、他者に対して「配慮が足りない」「幸せ自慢をするな」という思いが出てきてしまうのかもしれない。

私は、自分の身体の都合で諦めたことが幾つかある。だがこの「諦める」とは、決してネガティブな意味ではない。
仏教では「諦める」の語源は「明らかに真理を観る」「明らかに見極める」という意味だと、昔、何かの本で読んだことがある。
人生には時に、努力やお金ではどうにもならない不条理な事が起こり得る。
そのことを認めて受け入れる過程で、相当な葛藤や悩み、苦しみを伴うことは、私にもよく分かる。

だが、物事の真理を見極め、明らかにする「諦め」は、むしろポジティブな事であると私は思う。
その思考プロセスをきちんと経ることで、人間は自分の人生で起こる不条理を、葛藤の中からも、ようやく受け入れることが出来るようになるのだと思う。

生きていく中で私が手に入れた考え方の一つに、
「知足」と言う考え方がある。
足ることを知る、という老子の言葉であり、仏教の考え方でもある。

私の場合、働ける身体一つあれば、既に全てを手に入れていると思っている。あとはこの身体でどれだけ自分に出来ることをやっていけるのか、と考えるだけだ。

このように書けば、もっと欲を持つべきだ、もっと向上心を持つべきだ、と思う人がいるかもしれない。
だが私自身には、子供の頃から一つ一つ積み重ねてきた経験や考え方があり、腹を括ったり、決断したり、諦めたり、受け入れたり、様々な感情を味わいながら、自分の出来る範囲で出来る事をしながら、必死で生きてきた。
その積み重ねが、今の私だ。
限られた時間の中で、まだまだやりたい事は幾つもある。
「足ることを知る」事は、消極的な意味ではなく、豊かに生きることから離れる事でも決してない。

どんな選択も決断も、自由だ。
ただし、必ず責任と覚悟もワンセットだ。
その経験を積み重ねていくことで、男性も女性も、本当に自立した人間になっていくのだと私は思っている。

今後も、科学やテクノロジーの進化は絶対に止まらない。
人間は必要以上に欲しがる生き物だ。
人間の欲は果てしない。
そしてその進化と反比例して倫理の壁は低くなっていき、時代とともに、人間はふわりとその壁を飛び込えていくだろう。

この止まらない流れの中で、生身の身体と心を持つ人間が、どこまで耐え得るのだろうか。
そしてその先に、どのような「豊かさ」を求めて生きていくのだろうか。

産休クッキーをきっかけに、そんなことを考えてみたのだった。

 


 

 

ゴー宣DOJO2日連続開催も終了しましたが、今日も休まず思想を続けます!

なんで、自分が不幸だから他人の幸福を祝えないと言ってるひねくれた人に、みんなが合わせなきゃいけないんですかね?
これも平等絶対主義・人権真理教によって「弱者・被害者になったもん勝ち」という歪んだ価値観が幅を利かせているからとしか言いようがありません。

そして、テクノロジーの進化でそれまで不可能だったことが可能になったら、人間は幸せになったかといったら全然そんなことはなく、より欲深く、不満を抱えるようになってしまい、むしろより不幸になったかもしれないというのは凄い皮肉です。
やはり「足るを知る」ということがわからなくなると、人は醜くなっていくものなのでしょうか。

 

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